未来のことは知らない方がいい

 小さな頃の私は、結構オカルト少年のよーだった。

 一人二役で、一人で空中に向かって話しかけて遊んでいたりもした。

 一人で遊んでいた道路側の部屋に、荷崩れを起こした木材が落下した。部屋は跡形も無く潰れてしまったが、私は直前に家の奥から女性の声に呼ばれて、難を逃れた。若い女性の声は、聞き覚えが無かった。

 5歳か6歳の頃だった。熱を出してしまい、楽しみにしていた買い物が中止になり、一人家で寝ていたら、枕もとに人の指くらいの大きさの小人が現れ、輪になって踊っていた。緑色の上着にとんがり帽子につま先の尖った靴を履いていた。枕もとにあった、四つ折りにした新聞の”カド”を中心に掛け声をかけながら、楽しく踊っていた。ただ、目を閉じて開けた瞬間だけ見えていた。

 私は基本的に”予知夢”は、まったく見ない。なぜなら、夢の中に知っている現実世界の人が登場しないからだ。夢に出てくるのは、知らない町に知らない人々ばかり、更に知らない電車に乗っていたりする。それでも、既視感(デジャヴュ)には、再三遭遇している。「初めて訪れた町の何の変哲もない道に見覚えがある。」なんてのは、枚挙に困らない。

 ただ、既視感の次に、直後に起こる事象が分かることが、何度かあった。

 中学2年の頃だった。国語の授業中、ふと黒板を見ると見覚えがあった。すると次の瞬間、「教室の左側にいる友人がこちらを向いている。」と、思ったら、左側を見て確認してしまった。確かに、彼はこちらを向いていた。

 その時、言いようも無い気持ちの悪さが襲った。いつも、そうだった。どんなに些細なことでも、未来のことが分かることが、不愉快であった。なぜなら、分かりながらも避けられないからだ。

 未来は予想がついても、分かっているものではない。現実に目の前で起きている事象を、TVの番組予告のように分かっていて、その後の展開も分かっているなんて、つまらない。そもそも、分かっている未来なら、努力も無駄に思えてくる。

 未来は分からないからこそ、創造して我が物にしていくと思う。それが事前に分かってしまうなんて、何か挫かれたような気分になってしまう。

 分からない未来を、自らの創造で分かる”今”にすることが、大切ではないでしょうか。